2009年06月29日

イデオロギーの終焉を説く声が強まっている

冷戦の終結後、イデオロギーの終焉を説く声が強まっている。社会民主的な中道・福祉政党が世界の大勢を占め、かつてのようなイデオロギーをふりかざすことなく職業的・専門的な政治家・官僚によって純粋に生活向上が図られる世界に向かっているのが現代である、という分析である。また思想の面からは主に構造主義者によってイデオロギーはディスクールに還元可能であるとされた。

しかし、これらの事実はイデオロギーの終焉を必ずしも意味しない。以下代表的なイデオロギー終焉論について簡単な内容を記すとともに、その問題点を指摘する。
資本主義社会はその経済論理をすべての階級に及ぼし、同化吸収的に階級社会を消滅させたと説かれた。ゆえにこのような社会では階級闘争は終結し、それに伴って深刻なイデオロギー的対立は解消したとされた。

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しかしマルクスの見方には大きな欠陥がある。階級的な利害がイデオロギー的であることはもちろんであるが、イデオロギー自身は必ずしも階級的な利害を必要としない。つまりイデオロギーは何らかの階級制度や階級闘争を前提としない。前述のヴェイユの立場からも階級社会が解消されてもイデオロギー的抑圧がなお存在するであろうことはおそらく確実であると思われる。そもそも社会を階級闘争的にみる見方でさえ、社会的抑圧の形態を偽っているという意味でイデオロギー的であるといえる。

またフーコーら構造主義の哲学では制度や権力に結びつく言語表現としてのディスクールによってイデオロギーは置き換え可能だとされた。彼らは実際生活上あらゆる言語は意識的にしろ無意識的にしろ権力や政治と結びついていない言語はないし、またあらゆる言語は政治的になりうることを主張し、そのような言語ないし言語的コミュニケーションをディスクールと名付けた。

2009年06月11日

エリザベス・キューブラー=ロス

エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross, M.D.、1926年7月8日 - 2004年8月24日)は、精神科医で、死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』)の著者 。その本の中で彼女は初めて今日死の受容のプロセスと呼ばれているキューブラー・ロスモデルを提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。

キューブラー・ロスは、スイスのチューリッヒに、三つ子姉妹の長女として生まれる。父親が医学部進学に反対で、自ら学費を捻出するため、当初は専門学校を経て、検査技師をしていた。その後、1957年、31歳の時にチューリッヒ大学医学部を卒業している。彼女は医学部での学生時代に知り合ったアメリカ人留学生マニー・ロスと共に1958年学業をさらに続け、また働き口を探すべくアメリカにわたった。

彼女が自身の医療活動を始めようとした時、病院が死に掛けている患者を扱う態度に、愕然とさせられる。そこで、病気の患者をどう扱うべきなのかという一連の講義を始めた。これが、1961年の死と死ぬことについての講義につながっていく。1963年には、コロラド大学で精神科医の単位を取得している。彼女は、死をテーマにして20冊もの本を書き、世界各地で数多くの講演などを行った。1974年から1996年の間にそれらの業績に対して、複数の大学、単科大学から20の名誉博士号を授与されている。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

私財を投じて死に向う患者のための施設(センター Center)を開設し精力的に活動を行なった。現在、この活動はホスピス運動の嚆矢のひとつと考えられている。彼女が、ホスピス運動を創始したわけではないが、それを推進した人々は、まさに彼女によってこの運動がいのちを与えられたのだと異口同音に語っている。

やがて、彼女は死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになった。幽体離脱を体験したと主張し、霊的存在との交流に傾倒していった彼女を崇める人々もいた一方、彼女の夫のように、彼女から離れていった人々も少なくない。

晩年にはエイズ患者へのかかわりを深め、エイズ患者のための新たなセンターの開設を計画したが、そのために近隣住民との深刻な軋轢を生み、最終的に拠点センターの閉鎖、移転を余儀なくされた。拠点センターは原因不明の火事により全焼したが、彼女はこの事件を対立する住民による放火であると認識していた。

彼女は、1995年に脳梗塞に見舞われ左半身麻痺になった。その苦悩を2002年、アリゾナ・リパブリック紙のインタビューで語っている。2004年にアリゾナ州のスコットデールの自宅で亡くなった。

2009年06月07日

スポーツカー (Sports car) とは自動車のカテゴリの一つ

自動車の使用目的を条件としたカテゴリであり、運転を楽しむ(スポーツドライビング)ことを主な目的とし、高速走行時の操作性を含めた運動性能に重点を置いて設計・製造された自動車のことをいう場合が多い。

「スポーツカー」は自動車のカテゴリ中、最も古いものの一つである。1913年のイスパノ・スイザ3.5リッター車は、世界で初めてスポーツカーと呼ばれた車[1]。同時期のスポーツカーとして、ブガッティT13やボクスホール・プリンスヘンリーがある[2]。 自動車競技の創生期には競技用車両の事をスポーツカーと呼んでいた。当時のスポーツカーのほとんどは屋根がなく、またボディからタイヤが飛び出しているオープンホイールと呼ばれるデザインであった。その後、タイヤをボディに納め、フェンダでカバーする形式が登場する。オープンホイールタイプのレースカテゴリは、グランプリをはじめとして、既に確立されており、これらと区別する目的でオープンホイール以外の競技車両をスポーツカーと呼び始めた。
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当初は、競技用車両が一般公道を走行する事は普通に行われており(サーキットまで自走し、競技に参加することは普通に行われていた)、スポーツカーと競技車両の区別は必要なかったが、競技規定の充実にともない、これは困難となっていった、しだいに競技用車両はレーシングカーと呼ばれて区別されるようになる(スポーツカーを元にした競技用車両をスポーツレーシングカーと呼ぶ場合など例外もある)。 競技車両との差が明確になるにつれ、競技車両への応用を前提とした量産車の事をスポーツカーと称する用に変化していったが、さらに時代が変化し、レーシングカーの特殊化が進むにつれ、スポーツカーとレーシングカーの共通点は少なくなり、現在の日本においては、スポーツカーは公道で走ることを主な目的として設計されている車、レーシングカーはサーキットなど競技で使われる車を指す。

なお、スポーツカーから派生した言葉としてスポーティカー(Sporty car)というものもある。スタイリングがスポーツカーに似ているなどスポーツカーの備えている特長のいくつかを有している車で、スポーツ向けに趣向を振ってあるが、スポーツカーとまではいえない車のことを指すが、両者の間に明確な区別はない。

2009年04月24日

AIM(アメリカ・インディアン運動)の創設

レッド・パワーの中でも1968年7月29日にデニス・バンクス(Dennis Banks)や、クライド・ベルコート(Clyde Bellecourt、初代AIM代表)ら、大学教育を受けていないスラム育ちの血気盛んな若者によって創設された、アメリカ・インディアン運動(AIM)はことに有名である。

ミネソタ州の刑務所で出合い、二年にわたり構想をまとめたオジブワ族のバンクスやベルコートたちは、釈放後、ミネアポリスで結成大会を開き、インディアンの権利回復のためのさまざまな活動を始めた。当初、この団体名は「CIAC(憂慮するインディアン協議会)」だったが、「CIA」と読みが重なることに異議が出て、9月に現在の「AIM」に改められた。「AIM」の命名は、インディアン女性メンバーの「あんたら男達は何でも目標(Aim)、目標って言いたがるんだから、いっそAIMにしたらどうだい?」という発言による。

彼らは前述の団体とは違い、自ら「スキンズ」と名乗り、AIMのジャケットや、「インディアンの力」、「インディアンと誇り」と書かれたバッジを着け、髪を伸ばして編み、ビーズや骨の首飾りをし、髪や帽子に鷲の羽根をつけた。AIMの若者達は霊的な後ろ盾を得るために、自ら伝統派のメディスンマンたちを探し、協力を求めた。彼らは同化政策によって言語や文化を奪われた世代であり、伝統的な宗教儀式の実践によって、インディアンとしての民族性回帰を強調したことが大きな特徴だった。

指導者達はまず1970年にスー族の伝統派宗教者達の支持を得て、古来の宗教儀式を実践した。1971年には「サン・ダンス」のピアッシングの誓いを立て、「ゴースト・ダンス」を復活させた。スー族からはレオナルド・クロウドッグ(Leonard Crow Dog)たち多数、オジブワ族からはエディー・ベントン(Eddie Benton-Banai)、オクラホマのムスコギー族からはフィリップ・ディアー(Phillip Deere)といった、すでに数少なくなっていた伝統派のメディスンマンが、彼らを精神的に支えた。

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彼らはメディアに訴えかける戦術を取り、さまざまな組織との共闘・支援を行った。彼らはポンカ族の女性運動家ハープ・ポーズの提唱によって全員が禁酒の誓いを立て、アルコールに溺れる若者たちを「インディアン戦士」に甦らせた。彼らの抗議行動は、「大集会を開き、人々の共感を集める」、「争点を徹底的に明確にする」の二点に絞られ、反暴力主義を掲げた。組織統治のアドバイザーには、イロコイ連邦のオノンダーガ族指導者のオレン・ライオンズ(Oren Lyons)がついた。

1969年11月には、ミネアポリスで第一回「全米インディアン教育会議」が開催され、数千人規模のインディアンが全米から参加。AIMもこれに合流し、ラッセル・ミーンズや、大学教授リー・ブライトマン(Lee Brightman)らスー族の活動家たちがAIMに加わった。AIMは「教育問題委員会」を結成し、アメリカの標準歴史教材のなかでも差別的な「ミネソタ・北の星」の永久使用禁止を要求して教育委員会を提訴し、インディアンを「野蛮人」扱いした教科書差別表現の削除と併せ、これを実現させた。インディアンの子供たちは、白人の学校に入学させられても、これら差別的な教科書内容に嫌気がさしてすぐに落ちこぼれてしまうのである。また、チャック・ロバートソンによって、「インディアン寄宿学校」への対抗として、「インディアンによるインディアン児童への言語・歴史文化・芸術と伝統の教育」を行うべく、1970年に「生存の学校(サバイバル・スクール)」の第一号がミネアポリスに開設された。1975年には、ハンク・アダムスによって「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」が結成され、この動きは他州やカナダにも波及していった。

また、これまで黒人に対してと同様、闇の中に隠蔽されてきた、保留地での白人警官によるインディアンに対する暴力に対し、AIMは「警察対策委員会」を結成。パトロール自警団を組織して、白人警官による暴力行使の現場写真を撮るという作戦で裁判を起こし、揉み消しを許さず、警官の暴力行為を自粛させていった。またさらにインディアンの警察官採用要求などを実現させた。

メアリー・ジェーン・ウィルソンらAIM女性メンバーは、裁判官や陪審員、ソーシャル・ワーカーらの思考や対応がいかに白人中心であり、教育・医療の分野でいかにインディアンが不当な扱いを受けているかの啓発に注力し、「善意」の名のもとに白人が行っている「里親制度」などの「社会福祉」の撤廃を要求した。

AIMはミネアポリスでの結成ののちに、オハイオ州クリーブランドで組織拡大を行い、当初オジブワ族だけだったメンバーも、他部族の若者が次々参加していき、クリーブランド、ミルウォーキー、シカゴ、キャスレイク、ローズバッド保留地、デンバー、オクラホマシティ、シアトル、オークランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスなど、全米に支局を増やしていった。こうしたなか、ワシントンDCのBIAビルの占拠やサウスダコタ州のウンデット・ニーやブラックヒルズの返還を要求して占拠したり、1500人以上のインディアンによる抗議運動として、サンフランシスコからワシントンまで行進するなど大規模な行動を次々に実行していった。(→破られた条約の行進)

デニス・バンクスは、これらAIMの運動について、こう発言している。「我々はこの大陸のもとからいる地主だ。その地主が、地代を集め始めただけのことだ。」

これら急進的な彼らの言動は白人にとっては過激で、イスラム教黒人運動団体「ブラックパンサー党」とも連携したその運動は、武力で弾圧されるようになっていった。なかでも国際的反響を呼んだ「ウンデッド・ニー占拠事件」は、占拠解除後にAIMと連邦・FBIとの熾烈な法廷抗争に発展し、以後、州・連邦政府はAIMを反国家的犯罪集団とする、反AIMキャンペーンを強めていった。1973年から76年までに、AIMと関係のあるインディアン約300人がオグララ族議長ウィルソンの私設暴力団とBIA、FBIによって放火・銃撃され、少なくとも67人が死んでいる。AIM狩りの先頭に立った州司法長官のウィリアム・ジャンクロー(インディアン少女への強姦と暴行でAIMから起訴されている)は、この状況を「パインリッジはクメール・ルージュ制圧下のプノンペンよりも危険だ」と評したほどである。

当時、1960年代のインディアンを取り巻く状況は、まさに民族消滅の危機に瀕するものだった。さまざまなインディアンの権利が剥奪され、数々の部族が絶滅認定されていた。ラッセル・ミーンズはメイフラワー号抗議行動の中で、自身たちを「絶滅寸前の種族」と呼称した。レッド・パワー運動はそうしたなかで爆発するべくして爆発した民族運動だった。

2009年04月06日

ジャッキー・ウィルソン

ジャッキー・ウィルソン(Jackie Wilson)はアメリカのソウル/R&Bの歌手。1934年6月9日ミシガン州デトロイト出身、1984年1月21日にニュージャージー州マウント・ホリーで死去。本名 Jack Leroy Wilson Jr.

サム・クック、ジェイムズ・ブラウンと並び、ソウルのパイオニアのひとりとされる。ビリー・ワード&ザ・ドミノスに在籍、1950年代末からソロ活動を開始。1957年にブランズウィックと契約し「リート・プティ」でデビュー。この作品はモータウンの設立者のベリー・ゴーディJr.が関わっており、その後も作品を提供している。特にヒットしたのが、1958年の「ロンリー・ティアドロップス」で、R&Bチャート1位となり、ポップス・チャートでは7位を記録した。ウィルソンのこの頃のサウンドは、モータウン・サウンドの原形となっていると言われる。

ディスコグラフィー [編集]

アルバム [編集]
He's So Fine (Brunswick 54042 / 1958)
Lonely Raindrops (Brunswick 54045 / 1959)
So Much (Brunswick 54050 / 1960)
Jackie Wilson Sings The Blues (Brunswick 54055 / 1960)+
A Woman, A Lover, A Friend (Brunswick 54059 / 196l)
You Ain't Heard Nothing Yet (Brunswick 54100 / 1961)+
By Special Request (Brunswick 54101 / 1961)
Body And Soul (Brunswick 54105 / 1962)
Jackie Wilson At The Copa (Brunswick 54108 / 1962)
Sings The World's Greatest Melodies (Brunswick 54108 / 1962)
Baby Workout (Brunswick 54110 / 1963)+
Merry Christmas (Brunswick 54112 / 1963)
with Linda Hopkins: Shake A Hand (Brunswick 1963)
Somethin' Else (Brunswick 54117 / 1964)
Soul Time (Brunswick 54118 / 1965)
Spotlight On Jackie Wilson (Brunswick 54119 / 1965)
Soul Galore (Brunswick 54120 / 1966)+
Whispers (Brunswick 54122 / 1967)+
Higher And Higher (Brunswick 54130 / 1967)+
with Count Basie: Manufacturers Of Soul (Brunswick 754134/1968)
I Get The Sweetest Feeling (Brunswick 754138 / 1968)
Do Your Thing (Brunswick 714154 / 1970)
This Love Is Real (Brunswick 1970)
You Got Me Walking (Brunswick 754172 / 1971)
Beautiful Day (Brunswick 754189/1973)
Nowstalgia (Brunswick 754199 / 1974)
Nobody But You (Brunswick 754212 / 1976)

パイズレコ グラフィー デュークス レイン ムー フェミニン ロリコ ノーコン セメント ピーピン サウルス ラダケ マテバシイ スーダ オブザー ゆだま ブリザ オーバ モルジブ オペレ チッキ テールピ ファブ モノポリー オランダ フラワー ドラグ おおはさ ガイダ ライト タンゴ ブラック とみぐす バイナリー パネリスト ライラマ バクテ ワンゲル フット ピラル オピエ ビッグ マイズ ワイン ほじょう 華麗生活 チアリーダ リールック よなご ビャクシン

2009年03月22日

国鉄(JR)のゲージの扱い

標準軌をこれらのゲージに当てはめると、旧国鉄(現JR)や地方交通線のような狭軌鉄道はそれより狭い軌道でなければならない。Oゲージでは1/45で24mmになる。これは日本では標準的軌間であるので、ナローゲージの範疇に入れたくない人が多い。その結果OJゲージとして独立した分野が確立されている。
一方1/80で13mm、1/87では12mmというようにそれぞれの縮尺により複数の解釈がなされている。当然これらもナローゲージの中には入れない。
日本におけるナローゲージ

さらに狭い狭軌鉄道として914mm(3ft)ゲージ、762mm(2-1/2ftすなわち30インチ)ゲージ、610mm(2ft)ゲージがあるからそれらを模型化すると1/48でOn3の19mmゲージ、On30の16.5mmゲージ、さらに1/87ではHOn3の10.5mmゲージ、H0e(HOn30,HOn2 1/2)の9mmゲージ、HOn2の7mmゲージ、H0i(H0f)の6.5mmゲージなどがある。他のゲージも可能でありNゲージやZゲージでのナローも出現している。
ベリア スニップ プット オランダ ポーズ フォロー 最終便 パピヨン カボル モンク デキス ライザー ユビキ オレン ムニエ はまおぎ タブカラー ライフ カーチ チークダン くぼち ビスター きこう しらかば シャー ポリタン リノリ ダンプ サスペ レーヨン ラバトリー ノルマ サイトシテ パルス アゼル マウンテン ジュール トリビア ジャパネ センタ リード いもづる カプラー レンレン ポーザル みやこ ダンテ トックス オーラ ジョンブル

ファインとコース [編集]
ファイン
ファインとは「細かい」という意味のfineである。車輪、線路特にポイントのフログを実物に近づけるあるいは同等にした鉄道模型のことであり、どのゲージについても使う用語である。Oゲージ以上では盛んであるが、HOゲージ以下ではなかなか難しく採用者はかなり少ないが、Proto87などのグループが研究している。対する用語はコース(後述)である。
プロト48
Oスケールでは、1/4インチスケール、1/48が主流になったが、線路幅が32mmであった。実物の1435mmを1/48にすると29.9mmとなり2mmほど広いというのが我慢できない人たちも存在した。Qゲージといって29.9ミリゲージを採用した人たちもいたが極めて少数にとどまった。それはただ線路幅を狭くしただけでタイヤ厚さを変更しなかったため、蒸気機関車での動輪間隔、ロッドの収まり等の不都合の解消につながらなかったからである。1980年代に入り車輪形状をAARの規格の1/48とし、すなわち実物を正確に1/48とした模型を作ろうという動きが出てきた。提唱者達はProto48、PROTO:48と自らのグループを呼び、一部の業者は29.9ミリゲージの車輌の供給を開始したので社会的認知を得たというべきであろう。しかし、実物より遥かに急な曲線を通すので、ディーゼル機は良いが大型蒸機は困難であり、一大勢力になったとはいえないのが現状である。
コース
コースとは粗いという意味のcoarseである。鉄道模型は玩具から発達してきたので、脱線しにくいというのがその不可欠な条件の一つであった。そのためには、実物と比べて高いフランジ、厚いタイヤ、幅の広いフランジウェイを持つ分岐器のフログが必要であった。その後「ファイン」な模型を欲する人たちも出てきたので、そのような模型の一群をファインゲージと呼ぶ。「コース」であればおもちゃ的かということはない。現行のOゲージ、HOゲージ、Nゲージはどちらかというと「コース」であるが、十分にスケール感があり、それをおもちゃ的なティンプレートとは誰も思わない。要するに「ファイン」はやや特殊であり、「コース」は標準であると考えてよい。

鉄道模型のスケール [編集]
スケールはものさしのことであり、サイズは寸法である。日本ではメートル法が採用されているので分数表示が主流であるが、ヤード・ポンド法が採用されていた国では1フート(304.8ミリ)が何インチになるかという表示法が用いられてきた。 例えば、1フートが1インチになればそれは1/12サイズであり、1/2インチになれば24分の1サイズである。このように3/8、1/4、3/16、1/8とくれば、それぞれ1/32サイズ、1/48サイズ、1/64サイズ、1/96サイズとなる。 ヨーロッパではさらにメートル法と組み合わせて1フートが3.5ミリ、7ミリというスケールも採用され、それぞれ1/43.5、1/87サイズである。ちなみにHOスケールは3.5ミリスケールである。Oゲージでは17/64インチスケールも存在する。これは1/45サイズである。

アメリカではOスケール、HOスケールという名のものさしが市販されている。これを用いると、図面や模型に当てることにより、実物の寸法が直ちにわかる。ただしそれはフィートの単位で、である。

Oスケール
1/4インチスケール
実物の1フートを1/4インチに縮小すると1/48となる。主として建築図面に用いられたが、M.クロンカイトにより1930年代後半に鉄道模型の縮尺としての市民権を与えられた。Oスケールまたはクォーター・インチ・スケールとも呼ばれる。
Sスケール
HOスケール
Nスケール

ティンプレート [編集]
アメリカで発生した鉄道模型の一分野。もともとは高級な模型であったが、クリスマスプレゼント用の大量消費時代が到来した1936年頃ライオネルが発展可能なシステムを提示してから一挙にアメリカの標準模型として大衆化された。 文字通りtinplateでブリキ製の鉄道模型を指す言葉であり、ハイレール(hi-rail)という言葉と同義である。背の高い中空レールを用いる玩具的鉄道模型であって、スケールモデルに対する用語である。ハイ・フランジ車輌が走るように作られている。中央三線式の集電方式を採用している。 年少ファンのみならず大人の趣味としても認知され、アメリカでは大規模な交換市が数日にわたって開かれる。春先にペンシルバニア州ヨークで開かれる交換市が最大で、数軒のホテルを貸切り、野外の会場を含めて数万人の人出があるという。

Oゲージの場合、縮尺はおおむね1/64?1/48であり一定しない。小さく作れば大型機でも小半径を走らせることができるので、最近の製品は1/58サイズと謳っているものがある。

Oゲージが多いがアメリカンフライヤーのSゲージ(22mmゲージ)もある。これは当初より二線式を採用していた。

2009年03月06日

フォレスタル (空母)

フォレスタル (USS Forrestal, CVA/CV-59, AVT-9) は、アメリカ海軍の航空母艦。フォレスタル級航空母艦のネームシップ。艦名は、空軍との対立によるノイローゼで自殺したジェームズ・フォレスタル海軍長官にちなむ。フォレスタルは太平洋戦争時の日本海軍空母信濃を初めて超えた、アメリカ海軍の戦後第一世代の空母である。

フォレスタルは1954年12月11日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所でフォレスタル未亡人によって進水し、1955年10月1日に初代艦長R・L・ジョンソン大佐の指揮下就役した。

1950年代
フォレスタルは母港のバージニア州ノーフォークからバージニア岬とカリブ海で集中的な訓練を行い就役1年目を過ごす。その後重要な任務としてフロリダ州メイポートからその最新設備を利用した飛行訓練に従事する。1956年11月7日にフォレスタルはメイポートを出港し、スエズ危機の間指示があり次第地中海に展開できるよう東大西洋で待機した。その後12月12日にノーフォークに帰還し地中海の第6艦隊に加わる準備をする。1957年1月15日にフォレスタルは出航した。

公試時のフォレスタル、1955年地中海での任務期間にフォレスタルは多くの港を訪れ、各国高官及び一般大衆が見学乗船し、アメリカ海軍の威容を示した。軍事関係者に対しては様々な演習に参加して示威活動を行った。1957年7月22日にノーフォークに帰還すると、NATO軍演習、オペレーション・ストライクバックに北海で参加する。演習は9月3日から10月22日まで行われ、この間にサザンプトンを訪れている。

翌年は主要な艦隊演習への参加と、実験飛行作戦を行う。1958年夏のレバノン危機では、地中海に展開した部隊を支援するため東大西洋で待機する。7月11日にノーフォークを出港し、二日後にメイポートで航空部隊を乗艦させると大西洋での警戒巡航を行い、7月17日にノーフォークに帰還した。

1958年9月2日から1959年3月12日まで行われた二度目の地中海配備では、警戒巡航、訓練、大規模演習への参加と各国への公式訪問を行った。この間の艦への訪問者は国防長官ニール・H・マッケロイを始めとする多数が訪れた。ノーフォークへ戻ると飛行訓練生の訓練を行い、定期的に有事即応ができるよう態勢を維持した。同年の訪問者はヨルダンのフセイン国王を含む多くが訪れた。

1960年代
フォレスタルは再び1960年1月28日から8月31日まで第6艦隊に所属し、地中海の多くの港、スプリト、ユーゴスラビアを訪れ、パトロールや訓練を行い多くの訪問者を受け入れた。アメリカへ帰国するとその年の残りは東海岸およびカリブ海での訓練スケジュールを再開した。

フォレスタルは1962年8月3日から1963年3月2日まで第4指揮空母部隊の旗艦として再び地中海へ展開した。

甲板に駐機するC-130中型輸送機1963年11月8日、21日、22日にフォレスタルは歴史的な実験を行う。ジェームズ・H・フラットレー三世中尉および彼のクルー、「スモーキー」ストーバル中尉、エド・ブレナン中尉はロッキード C-130 ハーキュリーズで21回の離着陸を行った。その実験はマサチューセッツから500マイル(900km)沖合の北大西洋上で行なわれた。フォレスタルと C-130 は海軍史上最も大きく重い航空機の離着陸を成功させた。海軍は C-130 を「スーパー-COD(Carrier On-board Delivery)」として使用できるか考えていた。当時海軍では洋上の空母に補給を行うことのできる航空機が無いという問題を抱えていた。C-130 ハーキュリーズは信頼性と安定性を兼ね備え、長い航続距離と大きな輸送能力を保持していた。

実験は大成功であった。85,000ポンド(38t)の重量を持つ C-130F は267フィート(81m)以内で完全に停止した。また、最大積載量での離陸ではわずか745フィート(227m)しか使用しなかった。海軍は C-130 ハーキュリーズに25,000ポンド(11t)の積荷を積んで、2,500マイル(4,000km)の距離を飛行した後空母に着艦させることが可能だろうと結論を下した。しかしながらその考えは定期的に行うには少々危険すぎると考えられた。

当時 C-2 グレイハウンドの開発計画が進められていて、その一番機は1965年に使用可能となったため、C-130 を使用する計画は廃棄された。

フラットレー中尉は実験の功績で空軍殊勲十字章を受章した。

火災事故
1967年6月にフォレスタルはノーフォークを出港しベトナム水域に展開する。7月29日にトンキン湾で艦載機の発艦を行う。4日間にわたって第17攻撃空母航空団は北ベトナムの目標に対して150回の出撃を行った。

1,000ポンド爆弾が不足していたため、高熱に耐え安全な「H6」の代わりに旧式の「コンポジション B」爆弾が給兵艦ダイヤモンド・ヘッド(USS Diamond Head, AE-19)から補給された。

消火作業中の乗組員10:50(現地時間)ごろ、電気回路のショートで F-4 ファントム IIから発射されたズーニー・ロケット弾がジョン・マケイン海軍少佐のA-4 スカイホークに当たった。[1]ロケット弾は燃料タンクに当たり火災が発生する。飛行機は炎に囲まれ、マケインはコックピットをよじ登り機首から給油プローブに飛び移り燃え盛る甲板に飛び降りて避難した。1分34秒後にマケイン機の下で「コンポジション B」爆弾が爆発し多数の水兵が死亡、艦は沈没の危機にさらされた。

マケイン機の前方にあった2機のスカイホークは燃えさかるジェット燃料に飲み込まれ、装備していた爆弾が落下して約6フィート(2m)転がり、燃えさかる燃料タンクの前で止まった。

9回発生した爆発の内8回が旧型の「コンポジション B」による爆発であった。フライトデッキには巨大な穴が空き、艦の内部にJP-5ジェット燃料が流れ込んだ。その結果後部セクションで激しい火災が発生した。事故により132名の死者と62名の負傷者が生じ、2名が行方不明となった。艦は修理のためノーフォークに帰還した。

フォレスタルの艦載カメラはかろうじて爆発から避難したマケインの様子を撮影している。

現在アメリカ海軍では弾薬の安全性およびダメージ・コントロールの教育の際にフォレスタルの事故を教材としている。実際海軍の新兵は「Trial by Fire」と題された、フォレスタルの事故から作成された失敗例と成功例を含むビデオを視聴する。ダメージ・コントロールチームが炎で燃えさかるフライトデッキに泡を吹きかけることは正しい手順であるが、一方海水を吹きかける乗組員がいた場合、泡が洗い流され燃料による火災状況を悪化させることがある。その結果、「ウオッシュ・ダウン」システムが全ての空母に採用された。同システムはフライトデッキを水または泡で氾濫させて消火を行うようになっている。

この火災事故の後、フォレスタルは「フォレスト・ファイア Forrest Fire」「ジッポー Zippo」と呼ばれるようになった。

^ 証言や記録から、実際に被弾したのは彼の乗機の艦尾側隣にいたA-4Eだったようだ。(航空ファン2009.2月号)
タクト ダンス オゾン トレイン レギンス サッカー 最新伝説 キーロ スコル ノウハウ プレッ すなっぷえ ルンゼ マウス ムカム 流れ星 セクショ フライ ブランコ ナフサ マルウェア シストロ コチュ ヒーブ シード サインポ トレーナー アート ランニン ジュース フィーダー スチール クイーン バージガ アモイ 山茶花 サンダル ファシ ブレー オーバー モンド イエロー バック マイコ ハナミズ キャリ レーン フロックス ラッド アウトド

1970年代
フォレスタルは1968年から1973年の間に地中海に4度展開した。さらに、チュニス湾に注ぐメジェルダ川が氾濫した際には、チュニジアで救援活動に取り組んだ。

1968年10月、VAW-123 の E-2A が夜間の通常離陸を行った。乗組員はポール・マーティン・ライト少佐(作戦士官)、ジェームズ・レオ・ディレーニー少佐(整備士官)、ハワード・ブース・ラトリッジ中尉、フランク・J・フレデリック中尉、AT1デヴィッド・E・カーペンターであった。フライトは通常通り行われ、E-2A は回収される最後の機であった。E-2A は着艦に失敗し、アングルド・デッキから機首を先にして海中に落下した。機体はそのままひっくり返り、数分内に沈んだ。レーダードームが浮かび上がり回収された。直ちにヘリコプターが離陸して乗組員の救助がおこなわれた。カーペンターAT1とフレデリック中尉は無傷で救助された。ライト少佐、ディレーニー少佐、ラトリッジ中尉は行方不明となった。

1973年から75年にかけてはさらに3度の地中海配備を記録した。1974年7月22日、キプロス島でクーデター政権が崩壊すると、在キプロス大使のロジャー・ディヴィスはアメリカ人の撤退を要請した。海軍と海兵隊が協力し第6艦隊のインチョン (USS Inchon, LPH-12) から HMM-162 が派遣され、5時間で384名のアメリカ人を含む466名を救出した。この救助作戦の間、フォレスタルは上空援護を担当した。

1975年、フォレスタルは建国二百周年記念祭におけるニューヨークでの観艦式のホスト艦に選ばれた。1976年7月4日の観艦式当日、フォード大統領はフォレスタルの艦上から、世界各国から集まった40隻以上の艦艇を観閲した。

観艦式からまもなく、フォレスタルは特別衝撃試験に参加した。試験では船体近くで高性能爆薬を爆発させ、その負荷に耐えて作戦活動を継続できるかの調査が行われた。

2009年02月17日

よくばりサボテン

主人公・藤宮友弥は藤宮流合気道道場を営む両親を持ち、学園に通うかたわら、日々修行に励んでいた。そんな夏のある日、父より突然「夏の間に結婚相手を見つけろ。そうでなければ外国修行」と言い渡される。序盤は、女性と付き合うこと、まして結婚することなど考えてもいなかった友弥であったが、ヒロインたちからの積極的なアプローチにより、次第に女性に惹かれていくようになる。そんな友弥とヒロインたちの一夏を描く。
関連作『しまいま。』と同様、一部シリアスな場面もあるものの、全編を通して明るい雰囲気を持ったストーリー構成となっている。それぞれのきっかけから、主人公に好感を持ったヒロインが主人公に対してアプローチをかけることがシナリオ上の特色である。メーカーは公式サイト上において、本作を「言い寄られ系」と表現している。
チャーター ファック なめこ バルチス 七色の風 サイドスタ アップ ジプシー ビルマ 赤唐辛子 牧場の家 ストック スリング アーケイズ ヒエロ バースト 一本釣り ダウナー 夏の日 青春の谷間 ワラン バターピ 風神雷神 マイイレ バード トロイオ デコルテ バビロン マロン てっけん 番外野郎 ダイハー ナイロビ オマーカー フルライ テリー 赤オクラ アップ 検索マナ メータロィ ブータン カニ歩き ヒーロ ローゼ スキャン 一本勝負 ガーケキ わらづと フラッ マルトル

「よくばりサボテン」というタイトルは、本作のシナリオにおける、主人公に対して好意を持ちながらもはっきりと告白できず、今一歩主人公との距離を詰めきることができないヒロインたちの主人公へのツンツンした態度と、恋が成就した後の主人公への甘えぶりを「よくばりなサボテン」として例えているもの。

藤宮友弥(ふじみや ともや)
本編の主人公で他人に流されやすい性格の唐変木。頼まれると嫌といえないところがあり、学園ではクラスの副委員長を引き受けてしまっている。一見ひ弱そうな外見をしているのだが、実は父との無茶苦茶な修行のために無駄のない筋肉だけのかなり逞しい体つきとなった合気道の使い手である。公式アンケートの人気投票では、庵十郎と並び第8位。
眼鏡は伊達で闘争本能を抑える暗示として掛けている。その為、眼鏡を外すと抑制されていた力が解放される。また、凜からの「ある言葉」をきっかけとしても真の実力を発揮することができる。

霧島勇美(きりしま いさみ) 声:桜川未央
友弥と同じクラスのクラス委員長で、友弥の家の隣に引っ越してきた眼鏡っ娘(視力は、眼鏡を外すと周囲が霞んで見える程度)。お堅く真面目でお節介好きな性格、ついでに頼られると断れないという完全なクラス委員長体質。公式アンケートの人気投票では、第6位。
最初は友弥の事を自分と似たところのある軟弱でひ弱な副委員長としか思っていなかった。しかし、引っ越しで勇美の部屋が、友弥の部屋の真向かいとなり、「着替えを見られる」というお約束のハプニングから友弥の事を意識し始める。その後、梯子から足を滑らせたところを友弥に抱きかかえられたのを機に、ひ弱だと思っていた友弥が意外に逞しいと知って友弥に惹かれていく。
友弥の事は、当初「藤宮君」、付き合いだすと「友弥」と呼び捨てになる。
藤宮凛(ふじみや りん) 声:神村ひな
友弥の1つ下になる義理の妹で、5年ぶりに友弥と再会した。無口で感情をあまり表には出さないが、強がりで少し意地っ張りな性格。合気道の使い手。本編中は「彼女の猫耳は気にしてはいけない。」と言う暗黙の了解が存在する。公式アンケートの人気投票では、堂々の第1位。
藤宮道場の正式な後継者である為、本家に修行に行っていた。(友弥と早く会うため、本来6年掛かる修行を5年で全課程終了させた。)
幼い頃から友弥が好きで、本家に修行に出される前は、内気なお兄ちゃん子として友弥に付いてまわった。動物好きで、動物番組が始まるとテレビに釘付けとなり、義父響一が仕事で撮影してくる動物の写真も楽しみしている。
家事全般が得意である。目下の悩みは、他のヒロイン達と比べて自分の体型が見劣りしていることである。友弥が他のヒロインを選んでも、その恋を応援する健気なところもある。
友弥の事を「お兄ちゃん」と呼ぶ。
瀬名川早月(せながわ さつき)声:西田こむぎ
友弥と同じクラスのクラスメイト。アウトサイダー的な印象からクラスでは浮いた存在だが、実は自分に正直というだけの根は真面目で気さくな性格。公式アンケートの人気投票では、第3位。
クラス委員長の勇美と服装で口論になる事が多かったので、友弥のことはよく巻き込まれている副委員長としか思っていなかったのだが、ある日、不良達に絡まれた際、騒ぎに巻き込んでしまったと思った友弥が彼らを数秒で倒す姿を見て友弥に惚れる。
母親の影響からか、独学で建築デザイナーを目指していたのだが大人たちの無神経な行動に翻弄されている。
1つ先輩の秋奈とは友弥を巡ってよく言い争う仲である。
友弥の事は、当初「藤宮」、付き合いだすと「友弥」とどちらでも呼び捨てである。
棗秋奈(なつめ あきな)声:北都南
友弥と凛の幼なじみで、友弥の1つ年上の先輩。意地っ張りに見えるが実は優しい性格の甘えん坊。棗家の一人娘のお嬢様で、学園の執行部部長を務めている。公式アンケートの人気投票では、第2位。
幼いころは友弥や凛と仲が良かったのだが、凛が修行に出された当時、棗家の一人娘という立場によって起きる問題に悩まされて、八つ当たりで友弥にひどい事を言ってしまい、以後友弥を避けるようになった。
凛の友弥に対する想いを聞き、自分も素直になることを決心し、友弥と仲直りをした。
特に料理を筆頭として、家事全般が絶望的に駄目である。(秋奈ルートでは、棗家の使用人に多くの犠牲者を出したものの、食べられるモノを作れるようになった。)
友弥の事を「トモくん」と呼ぶ。
奈々月絢音(ななつき あやね)声:佐本二厘
友弥達が働く喫茶ななつきの店長で友弥より5歳年上。少々天然でおっとりしているが、いたずらっ気のあるお茶目で優しい性格で、前作の「しまいま。」にも登場している。公式アンケートの人気投票では、第5位。
よく友弥や勇美達をからかっている。また、可愛い男の子が好きで、うぶな友弥に色仕掛けで迫ったりもしている。
大きく豊かな胸の持ち主で、胸の大きさに悩む凛にとっては「天敵」といえる。
友弥の事を「友ちゃん」と呼ぶ。
凰火朱鷺(おうか とき)声:理多
藤宮流の本家である凰火流合気道の次期当主で友弥より2歳年上。浮世離れしていて少し我侭で、どこかつかみ所のない性格。公式アンケートの人気投票では、第4位。
6年間海外で武者修行をしていたため、修行時の凜との面識はなかった。
本家の次期当主に相応しく合気道の腕はかなりのもので、凛を軽くあしらう程である。
当主候補として育ったため、家事全般は不得手であり、特に料理の腕は秋奈と同じく絶望的といえる。
友弥の許嫁(ハーレム編)
許嫁は親が勝手に決めた事だったが、友弥の腕を試した際、友弥の実力が予想以上だったため友弥に惚れる。
ラスボス(凛ルート)
凛の母の発案で、友弥と凛の仲を引き裂くラスボス役として、凛の許婚と称する男のふりをして登場する。しかし、凛を凰火の家に連れ去る前に真の実力を発揮した友弥に敗れたため友弥に惚れる。
友弥の事を「友弥さん」と呼ぶ。

サブキャラクター
瓦鮎人(かわら あゆひと)声:鈴木恭介
公式アンケートの人気投票では、第7位。
友弥の友人であり同じクラス。ノリ重視の陽気な性格だが一言多いのが玉に瑕。
本人に自覚は無いが、たびたび早月の邪魔をしてしまい、よく殴られている。他のヒロインからも間の悪さから不評をかっている。
流行を追うので多趣味に見えるだけの器用貧乏。本編の序盤では『しまいま。』の遊馬を羨んでいるような発言もしている。
藤宮響一(ふじみや きょういち)声:高岡政人
友弥の父親であり凛の義理の父親。藤宮合気道道場師範。豪快を通り越して無茶をする性格。公式アンケートの人気投票では、第10位。
道場の師範ではあるが、職業は動物撮影がメインのフリーカメラマン。そこそこ有名らしくあちこちに出張している。
妻の蓮と娘の凛には頭が上がらない。
庵十郎(いおり じゅうろう)声:風見健
秋奈の執事兼ボディーガード。公式アンケートの人気投票では、藤宮友弥と並び第8位。
色々な過去を持っている謎の人物。しばしば秋奈が練習として作った料理の味見をさせられる。
急ぎと有れば、全長6mのリムジンでドリフト走行をこなし、ヘリの操縦もできると言う芸達者。
棗家の私兵部隊(通称・黒服部隊)2部隊を隊長として指揮し、秋奈の恋路を援護する。庵秋津という傭兵メイドの妹がいる。(監督の脳内設定。)

エキストラキャラクター
絵は無いが一応設定が存在していると思われるキャラクター
霧島泉美(きりしま いずみ)
勇美の母親。イギリスに本社がある外資系企業に夫と共に勤める。おばさんと言うと「おばさん禁止」と言って怒る。
勇美の父
勇美の父親。名前は不明。(「こ」で始まると思われる。)イギリスに本社がある外資系企業に妻と共に勤める。
藤宮蓮(ふじみや れん)
友弥の義理の母親であり凛の母親。藤宮家の当主であり主婦、副業として柳水院蓮華(リュウスイイン・レンゲ)のペンネームで少女向けライトノベルの作家もしている。
作中は本家の用事などで家を空けている。
早月のママ
早月の母親。名前は不明。建築デザイナー。早月ルートで登場する。友弥が早月の姉と誤解する位見た目が若い。オープンな性格であり、早月に対してセクハラと受け取られる言動や行動が多い。
斉藤代造(さいとう だいぞう)
早月が出展するデザインコンテストを主催した建築デザイナー。早月ルートで登場する。謝礼目当てでデザインコンテストを企画したり、仕事を弟子に丸投げしている。
笹原会長(ささはらかいちょう)
早月が出展するデザインコンテストの特別審査員で協賛企業の会長。名前は不明。早月ルートで登場する。早月の母親が、若い頃に鍛えられたクライアント。見た目に惑わされず細かい点もしっかり評価する人物。
秋奈の父
秋奈の父親。名前は不明。ナツメコーポレーションの社長。一人娘である秋奈の将来を心配するあまり娘の気持ちを無視する形で見合いの話を進めようとするが、基本的には親馬鹿である。
神無静流(かみな しずる)声:西田こむぎ
絢音の従姉妹。絢音ルートで電話の相手としてのみ登場。前作しまいま。のヒロインで秋奈の前代の執行部部長。早月とは他人の気がしないらしい。
山本誠一(やまもと せいいち)
絢音が喫茶ななつきの改築デザインを依頼したコーディネートプランナー。絢音ルートで登場する。友弥が絢音の見合いの相手と勘違いする。(凛に勘違いさせられた。)

2009年01月28日

徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した

(1614年)10月2日、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった[6]。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。
メソッド ディスポ ワシン ナギイ 十字星 ケルセ ロービ はつい バナナの涙 鹿鳴つまみ 延暦 スーパー ハリケーン ノンブル タイム メラネシア メラルド スタンバイ ダイク スパン バックナ きゃべつ マスアミ ジャテラ ローフ レクイエム がいがん トリプシ リップ ハーピー ドラス ハゲイ トッカ リグナビ ハット チューリ ランド フラック ツンドラ せろりあ サフ たぬきじる め組最 エスキナ パスモ かたしな レジューム プラン オーバ ソビエト

集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいた。彼らは徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などで、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めに過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。

豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、周辺に砦を築きつつ(警戒・連絡線を確保する為)、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。[7]

同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。

幕府軍の出陣
10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。23日に二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。豊臣家恩顧の者たちが豊臣方に寝返るのを恐れたといわれるが、関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力した黒田長政に関してこれは当てはまらない。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。

11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。

緒戦
慶長19年(1614年)11月19日、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において激しい戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。

攻囲戦
豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を[8]、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していった[9]。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している[10]。

この接近時に豊臣方の挑発に乗って始められた、包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦(12月3日、4日)では、豊臣方が徳川軍を撃退、諸隊に大きな損害を与えた。秀忠は同日4日に岡山に着陣し、家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申するが、家康は敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよとこれを退けている[11]。5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し[12]、8日までに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。

9日より家康は大坂城に対する攻城を本格化させる。先月23日[13]より伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄堤がこの日竣工し、大和川がある為干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる[14]。本工事終了後、続いて大和川の塞き止めも行っている。また、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)[15]。この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は20から30間、藤堂隊は7間に近接している[16]。

10日には投降を促す矢文を送り[17]、11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道掘削を始めた[18]。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている[19]。更に、船場の堀の埋め立ても命じた[20]。

そして16日から全軍より一斉砲撃が始められる[21]。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられており、また6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門[22]も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかった。

これに対し豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃し、竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと鉄砲の効果は激減する[23]。また砲撃に対抗してこちらも砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたが(17日)、劣勢であることは否めず、和議に応ずることになる。

和議
徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり[24]、また真冬の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人の為の加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。

豊臣方も同じく兵糧に加え弾薬の欠乏や徳川方が仕掛けた心理戦、大砲で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、また豊臣家で主導的立場にあった淀殿も本丸への砲撃で身近に被害が及び、態度を軟化させて和議に応じたという(16日)。

交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。

講和内容は豊臣家側の条件として

本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事。
淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事。
が提出され、これに対し徳川家が

秀頼の身の安全と本領の安堵。
城中諸士についての不問。
を約すことで、和議は成立している。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(但し、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある[25])。

堀の埋立
和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものであった。

しかし、徳川側は徹底的な破壊を実行する。松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋めた後に、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。

この間、豊臣方は二の丸の埋め立ては当方の受け持ちであると抗議したが、徳川方は「工事が進んでいないので、手伝う」といいそのまま、埋め立てを行った。この際、門や櫓も徹底的に破壊されている。

内堀まで埋め立てることは当初からの和議の条件であった。そのため、豊臣方の制止を無視して「だまし討ち的に」内堀まで埋め立てたとする通説は俗説であるが、以上のような経緯が誇大に伝えられた結果と考えることができる。

またこの間、徳川方は豊臣方が浪人が退城しない事について不審感を抱いている。これは徳川方が浪人については助命という意味で不問にしたのに対し、豊臣方についてはこのまま召抱えても良いという解釈の差があったと思われる。

2009年01月20日

ブラウニー、ジュニア、シニア、レンジャー、成人会員のやくそく

私は、神(仏)に対するつとめを行い
地域と国と世界への責任を果たし
人に役立つ事を心がけ、ガールスカウトのおきてを守ります。

テンダーフットのやくそく
わたくしは ガールスカウトです。
わたくしは よくみて よくききます。
そして みんなと なかよくします。

おきて

ジュニア・シニア・レンジャー・成人会員のおきて
わたくしはいつも明るく勇気を持ちます。
わたくしは命ある物を大切にします。
わたくしはすべての人の友達となり、他のガールスカウトとは姉妹です。
わたくしは礼儀を正しくします。
わたくしは時間と資源を大切に使います。
わたくしは自分で考え行動します。
わたくしは言葉と行いに責任を持ちます。
わたくしは誠実であるように努めます。

ブラウニーのおきて
私はいつも明るく勇気を持ちます。
私は命ある物を大切にします。
私はすべての人の友達となり、他のガールスカウトとは姉妹です。

キンキ ツバター 夜の足音 きこう シーメー ミーンズ シャーク ニュピ 新秋柿 チャー インス 線香花火 オーピ スチーマー トレッチ ふくいく リバティプ リトミック ターメ スピーカー ノーシャ パラフィン ルコウソウ パルサー ギニョー ホウセン フォー ウォー でらいと ケット おおわ ハック バンクス レンテン ナンバー ゆうな トロイ パルテ フェースオ ゼラチン シャク ステレオ アーム マウンド ミゼラブル マインド スイング じょうめ メタリック 浦島太郎

モットー
「そなえよ つねに」(備えよ常に)。これはボーイスカウトのモットーと同じ。

テンダーフットのモットーは「いつも にこにこ」。

制服
制服は水色を基調としたデザインとなっている。チーフはブラウニーが白地に赤のふち、ジュニアが白地に茶色のふち、シニアが白地に緑のふち、レンジャーが白地に紺色のふち、指導者は紺のものを用いる。

冬の正装は、水色のベレー帽に水色の長袖ブラウスと同じ色のボックススカート、紺のハイソックス、紺のカーデガン。(全て指定)

夏の正装は、水色のベレー帽に白いブラウスと水色のボックススカート、白いソックス。

キャンプ用の制服(キャンプユニフォーム)は、グレーのチューリップハット(キャンプハット)に水色のシャツと紺色のキュロットスカート、靴下は正装に準じる。また、団によってはチーフをする所もある。

※正装時(式典など)は技能帯という、右肩から左にたらす帯を着用。(課題などを達成して得たバッジが貼ってあるもの)

ボーイスカウトとの連携と違い

ボーイスカウトとの連携
ガールスカウトとボーイスカウトは、地域によって差があるものの兄妹の関係になる為、常に連携を取っている。日本ジャンボリーなどボーイスカウトの全国や地区レベルの大会にガールスカウトの代表が招待されている。また、地元のガールスカウトとボーイスカウトが協力して「赤い羽根共同募金」等、時として同じ活動をする時がある。運営管理部門を共有化している団体もある。高校生・大学生レベルでは自主的に活動の研修会を共同企画している地域もある。

ボーイスカウトとの違い
ボーイスカウトは、女性の社会進出、男尊女卑の撤廃、女性によるソフト面のケアへの期待などの理由(100年前の社会情況と違う)により、少女のスカウトと女性の指導者の受け入れを認めている。(女子専用のテントなど女子に対しての配慮はあるが、活動中、女子だから男子だから、という区別はない)(=ジェンダーフリー)

ボーイスカウト日本連盟の英語表記は、「Scout Association of Japan」であり、ガールスカウト日本連盟の英語表記は、「Girl Scouts of Japan」である。ボーイスカウトの方に「boy」がつかないのは、加盟している少女や女性に対しての配慮である。

ガールスカウトは、ボーイスカウトの目標に加え、「自立した女性の育成」という目標も持っている為、少女だけのスカウトと、女性だけの指導者である。

ボーイスカウトとの共通部分
多数あるが特徴的なものは下記のとおり。

進歩制度があり、努力し勉強した効果が認められればワッペンがもらえ、制服やたすきにつける。また、上の者が下の者の面倒を見る(奉仕する、と言われている)システムも同じである。
制服とネッカチーフがスカウト活動の象徴である。
モットー(規範)の『そなえよつねに』(備えよ常に、Be Prepared)、スローガンの『日日の善行』(一日一善、Daily Good Turn.または Do a good turn daily.)は双方共通である。ちかいとおきては双方ともあるが文句は違う。しかし、おきて8項目の数は同じである。

ガールスカウト/ガールガイド出身の著名人
小池百合子:政治家
中山エミリ:タレント
渕崎ゆり子:声優
ヒラリー・クリントン:ビル・クリントンアメリカ大統領の妻。上院議員。(クリントン大統領もボーイスカウトであった)
キャサリン・D・サリバン(Kathryn D. Sullivan):宇宙飛行士。アメリカ人女性として初の宇宙遊泳を行った。
エスメラルダ・サンチャゴ(Esmeralda Santiago):作家
タマラ ・ジャーニガン(Tamara Jernigan):NASAの宇宙飛行士
マーサ・スチュワート
ブライス・ダナー(Blythe Danner):女優。エミー賞受賞者
キャンディス・バーゲン:女優
ドロシー・ハミル(Dorothy Hamill):フィギュアスケート選手
ボニー・ブレア(Bonnie Blair):アメリカの金メダリスト(スピードスケート)
ダコタ・ファニング:女優
マドンナ:歌手
メアリー・タイラー・ムーア:女優
サリー・ライド:宇宙飛行士
スーザン・ルッチ(Susan Lucci):女優。エミー賞受賞者。
ナンシー・レーガン:ロナルド・W・レーガン米国大統領の妻(レーガン大統領もボーイスカウトであった)
デビー・レイノルズ:女優
J・K・ローリング:ファンタジー作家、「ハリー・ポッター」シリーズの作者。
ヴェラ・ワン(Vera Wang):ヴェラ・ウォン、ヴェラ・ウォングの表記もあり。ファッション・デザイナー
コンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice):米国国務長官

ガールスカウト豆知識
ブラウニーのヒントとなったのは、ジュリアナ・ホレイショー・イウィングの『ブラウニーズ』である